2.2.14

再読

著者 : Nahoko Uehashi
Scholastic Paperbacks
発売日 : 2009-04-15
久しぶりに『守り人』シリーズが読みたくなって、そういえば英語訳の方は数回しか読み通してないな、と思って手に取りました。

大胆に意訳されている部分が多く、以前は上橋さんの独特の文体が消えてしまったことが残念でなりませんでした。今読み返すと、原文を読むことがない英語話者の読者にとっては、非常に流れが良くて、訳であることを意識させないような工夫がされていることが分かります。

日本では、海外の翻訳ものが多く出版されていて、児童書でも「翻訳本」なりの文体が確立されているように感じますが、英語圏ではあまり、特にアジアからは翻訳されているものがないように思います。

ちょこちょこっと、「なんでここ変えたんだろ…?」という部分が、ありました。たとえば、「新ヨゴ皇国正史」で、原文では「三人のヤクーたちが…」となっているところ。英語では'some Yakoo'となっていました。この後「三日三晩の戦い」が出てくることもあり、筋書き的には重要でない部分で敢えて「3」という数字を出すことで、伝説らしさが滲み出てくるのが良いなあ…と思っていたので、ここを何故変えてしまったのかが、気になります。


また、主語が曖昧で、文脈に依存する文が多いため、構文の理解がちょっと違うんじゃないか?という箇所も。文法的には両方の解釈が可能なので、誤りでは決してありませんが。ちなみに、一番気になったの箇所がノギ屋の弁当の描写なので、物語上の支障はまったくありません。むしろこういう理解の違いは面白いな…と思いつつ、挙げずにはいられないのが原作厨の性ですので、ちょっと抜き出してみます。他の部分の訳し方も、工夫されているのがわかって面白いと思います。

原文
「米と麦を半はんにまぜた炊きたての飯に、このあたりでゴシャとよぶ白身魚に、あまからいタレをぬってこうばしく焼いた物がのっかり、ちょっとピリッとする香辛料をかけてある。いい色につかった漬物もついていて、なんともおいしそうだった」

訳文
'hot rice and barley; a fillet of white fish known in the area as gosha; something grilled in a sweet, salty sauce with a slightly spicy seasoning; and pickles'

上橋さんの文体に慣れていれば、一文がかなりたくさんの句読点で区切られていることが多いのを知っていると思います。ですから、「このあたりでゴシャ~」と「あまからいタレ~」の二句は繋げて理解するべきだと私は思っていました。この英訳では、この二つの句が別々の食べ物として解釈されているのがわかります。考えてみればどちらでも正しいわけなんですが、こういう違いが面白いなあと。

もうひとつ、漬物の描写がやたら省略されてるのが分かると思います。これは、解釈の違いではなくて、読者への配慮でしょう。漬物という存在に慣れていない読者が「いい色につかっている」と言われた所で意味がわからないので、文の流れを優先して削ったのでしょう。美味しいのは、チャグムの反応で間違いなく分かりますしね。


上橋さんと訳者のヒラノさんが苦しまれたという、視点の問題。上橋さんの文体は、日本語で読めば全く違和感がないのですが、いきなり焦点を特定の人物に絞ったり、いきなり物事天から見つめているかのような視野になったりで、運動が激しくて、主語がある程度しっかりしていないといけない英文に訳すと、かなりふらふらした文章になってしまいます。この問題は、文章を各セクションごとに特定の人物の視点にすることによって、解決されています。

この過程で一番得をしたのが、シュガでしょう。上橋さんも当時仰っていましたが、シュガ視点にするために大幅に書き下ろした部分があるとのことでした。多分、これは第三章の、シュガ初登場の場面だと思います。
原作の方では、この時点ではシュガのパーソナリティがあまり読めないままですが、ここでは悩める若手の学者として出てきます。見習い時代に暗誦したという「新ヨゴ皇国正史」の抜粋を思い出しながら、焼け跡を見つめ、ガカイの失態に舌打ちしています。
「新ヨゴ皇国正史」も大幅に改編されています。私の印象では、神話や民間伝承などを現代語で語りなおすときの文体や構成に似せられている気がします。ナナイの風貌についてや、「古ヨルサ王国」、身分を問わず星読み博士を選抜する取り決めは、省略されています。

省略されているだけでなく、足されているところもあります。たとえば、「光扇京」の構造については、より具体的に扇の形になぞらえていて、とても綺麗です。<扇ノ上>は扇の持ち手、と解説されています。こういった、日本やアジアの文化を持つ読者なら簡単にイメージできるけれども、西洋系の読者は分からないであろう箇所は、ところどころそっと書き加えられたり、書き換えられたりしています。ちなみにシュガが漁民出身であることも、原作のこの巻ではまだ明かされていないはずですが、実は語られています。


以前、高校生の頃に読んだときには、こういった差異がやたら気になって、原作の通りがいいなぁ、と思ったものですが、やっと今になってこの文章の美しさがわかるようになりました。「翻訳」というより、『精霊の守り人』という物語の「語りなおし」に近いと思います。英語圏の、日本とは異なる文化を持つ読者に、どういう形にして届ければこの物語を受け取ってもらえるのか。それを考えた形になっているのだと思います。実際、米アマゾンなどではかなりの高評価ぶりです。

この機会に続けて、『闇の守り人』の英訳の方も読み直してみようかと思います。

11.1.14

お知らせ

最近、古英語の話ばかりで、やはりこのブログの本来の趣旨から離れてしまっているなーと思い、新しく古英語専用のブログを設けることにしました。 そのため、古英語関連の2記事を、そちらへ移動させます。古英語ブログのアドレスは、http://seisfenixhaten.blogspot.jp/ です。

こちらのブログも、かなり閑古鳥を啼かせてはおりますが続けていく所存です。
よろしくお願いいたします。

27.2.13

読了

お久しぶりです。 先日やっと、前回書いた本Through the Language Glassを読み終わりました。ちょびちょび読んでたので長かった!読んでいて愉快で、世界が広がって、勉強にもなって、未来への展望も少し分かる、本当に良い本でした。 今読んでるのは、こちら。
正直、あんまり面白くは…ない…です。 中世英国への旅行ガイド、のような体なのですが、説明が多く、ガイドブック形式でない方が逆に面白かったのでは?という感じです。それと、学術書に慣れてしまった私には、引用元(Through...には脚韻こそなかれど、引用元の著者の名前はかならず紹介され、書籍の最後にも参考文献がびっしりでした)が記載されない、というのが不安で、どこまで信じて良いのやらさっぱりなところもネックです。とはいえ、当時の雰囲気をチョーサー等の著作を絡めて紹介してくれる辺りは、全体のイメージをつかむ上では良さそうです。中世英国の日常が知りたい!でも学術書は時間がかかりすぎるし痒いところに手が届きにくい、という人には向いているかも。
…と、思っていたのですが、本格的に基礎知識用に借りてきた「オックスフォード ブリテン諸島の歴史 5(14,15世紀)」の記述と大幅に被る上、こちらの方が整理されていて読みやすいです。
最も、こちらは私も日本語の方を読んでいるのですが、なんだか、学生が訳してる…?というような直訳具合です。多分、下訳はバイトなのでしょう。

そして、とうとう、以前から欲しかった守り人アニメDVDに手を出してしまいました。1と2。だって限定版が中古であったんだもの…。以前は絶対に手の届かないお値段でしたが、そろそろ私にも相応な感じに下がってきているようなので、少しずつ、揃えていきたいです。(売上に貢献できないのはファンとして心苦しいですが、流石にあの価格設定は無理…)




もう1年くらいずっと、メールのやりとりを続けている子がいます。友人と言うには遠く、知人というには若干近い、そんな感じの子。お互い日本に居た時は、そんなに話すこともなかったのに、何故か文通。直に会ってた時より今の方が距離が近い感じで、文通の醍醐味とはこういうところなのかな、などと思いながら返事を打っています。あの子が戻ってきたら、もとの距離に戻るのかな、と思うと、今から少し残念。

そして先日、友人の結婚式に行ってきました。私にとって貴重な幼馴染。お互い、あまりにもタイプが違っていて、出かける先も何もかもが被らなくてあまり会う機械もありませんでしたが、彼女が東京を離れて、国内とはいえ、遠く南へ行ってしまうのだと、式でしみじみと感じました。彼女が私の周りでは一番乗りでしたが、これから皆、仕事や結婚で、色んなところへ行くのだろうな、と、今更ながら当たり前のことを考えました。

最近、自分の周りが騒がしくなってきました。来月は、私も忙しくなりそうです。勉強も私生活も仕事も、気合いを入れねば。

20.1.13

人と言葉

前回の記事、撤回はしませんが、トップ記事にしておくには薄暗いのでもう1本。



こちらの本を、今読んでいます。 日本語版はこちら。

 実は、話す言葉が違っても世界は同じように見えている、というのが、言語学を学んで一番最初に教えられることのひとつです。根拠は、たとえ語彙がなくて言い表せなくても、言葉を重ねれば理解することができること。たとえば、「恨み」という日本語に対する英語の直訳がない、だから文化の違いが云々、みたいな話はよく聞きますが、この「恨み」のコンセプトだって、直訳がなくとも説明すれば、大体の意味は非日本語話者にも分かるのです。だから、言語によって世界の見え方が違う、ということはない、と言えるのです。

 そこに疑問を投げかけたのがこの著者。本当にそうだろうか、と。確かに、理解可能かという切り口からしたら、さきほどのような結果が出るでしょう。この著者は別の切り口から、言語とそれを話す人々をみています。つまり、物事のどのような側面を言葉で表現するのか、という面から見れば、言語によって世界の捉え方が違うのではないか、と。たとえば、日本語では緑のことを青と呼んだりしますが、別に緑と青を同じに見ているわけではありません。でも、それをまとめて呼んでいること、その事実自体に意味がある、という考え方です。

 …というところまでしか、実は読んでいません。紹介したのは前半戦部分、今ちょうど半分を越した辺りまで読みました。

 これらのことから著者がどんな結論を出すのか、まだ見届けられていませんが、とても楽しみです。