本、というかエッセイの話にかこつけて、色々ぶちまけています。誰に読んでもらいたいというわけでもないのですが、自分の記憶と体験を、整理する必要を感じて書きました。(若干うす暗いですのでご注意ください)
「幼くて、幼くて、同級生が生身の人間に恋をしていたとき、私は、イギリスの児童文学に恋をしていました」―小説現代1月号、166頁
上橋菜穂子さんのこの一文が、無性に胸に響きました。
同じ17歳のとき、私は何をしていたんだろう、と考えると、まず守り人シリーズに恋をしていたのでしょう。あのときはもう5年目にもなる学校に馴染めずに、物語に没頭しつつも、人に恋することに憧れていた時期だったように思います。高校生の世界の大半を占める学校のクラスで、定まった居場所のないような居心地の悪さを味わいつづけていて、自分に対する評価は低く、その中で、違う自分を、取り繕っていない自分も受け止めてくれる人を、求め続けていました。
私の通っていた学校は、今から思うと本当に自分に合っていない場所でした。いくつも目に見えないルールのようなものがあって、それが体質に合っている同級生たちは、呼吸するのと同じくらい自然に溶け込んで行くのですが、私は、それらをひとつひとつ発見して、守るように努力せねばなりませんでした。スカートは目立たない程度に短くして、セーターはこっそり異装、小難しい奴だと避けられぬよう、話しかたは文語体や小難しい熟語はなるべく避ける。誰も本の話はしないし、漫画も下手をするとオタクのラベルを貼られるので避ける。難しい議論は、面倒くさいと言われるのがオチなのでまず取り上げない。ばかばかしいくらい小さなことばかりですが、これがいくつか外れると、もう「変わり者」のラベルを貼られてしまうのです。本を読むことが趣味で、買い物が苦痛だった私には、少々大変でした。
これは「つくってる」自分で、本当の自分ではない、という考え方は当時から嫌いで、「つくってる」自分も含めて自己の一部なのだと思っていて、そういう意味では息苦しく感じることも、そんなにはありませんでした。そもそも、一貫だった中学ではその「変わり者」のカテゴリに分類済みで、それでもあんまり気にはしていませんでした。でも、高校に上がって、大分メンバーが入れ替わると分かったとき、この環境の中でどれくらい、自分が受け入れられるのか、やれることをやってみよう、と考えたのです。このまま「別に溶け込めなくてもいい」と言っていたままでは、ただの負け犬の遠吠えというやつではないか、と思っていました。
気をつけて気をつけて、中学では「変わり者」として話しかけられもしなかった私も、少しずつクラスに居場所を築き上げられた、ということが実感できたときには、何やら達成感を感じたのを覚えています。
彼氏、というものが切実に欲しかったのも、この時期でした。当時私は、通っていた学校ではないところに行っている子に、恋をしていて、ちょうどそれが叶ったところでした。多分、自覚ありの恋はあれが初めてだったので、一応初恋が叶ったうちに入るのでしょうか。
めでたく叶ったのは良いのですが、幼かったというか、自信が極端になかったというのか、それで、その前までは友達として笑い合い、色んな話をした仲だったというのに、途端に何も話せなくなった記憶があります。学校のことはあまり話したくないし、読んでいる本のことも、クラスでのように引かれてしまったら…音楽もあまり聴かないし…と、嫌われたくないあまりに、何を話せばよいのか、急に怖くなっていました。振り返ってみれば、本当に余裕が無くて、幼かったんだなあと、しみじみしてしまいます。校風に自分の個性がとことん合わなかったことの弊害は、同級生に合わせていないときの自分に対する自信を、あらかた失ってしまったことなのかな、と思います。
多分、この時期に私が欲しかった「彼氏」というのは、恋人、ではなくて理解者、だったのだと思います。相手の子は、私よりもっと一途で、そして大人な子でしたから、食い違ったのも無理はないでしょう。それで、結局数カ月で、別れてしまいました。
そして、少しずつでもクラスの中での自分の位置を確保していくにつれて、そんな都合のいい理解者を欲しいという欲求も、薄れて行きました。そういう意味では、あの当時の恋は、恋じゃないような気もします。
受験を乗り越えて、大学もほぼ決まり卒業するとき、周りの同級生たちの多くは泣いたり、そうでなくても寂しそうな表情をしていました。その中で私は、とうとうここから出られるんだ!と妙に晴々しい気分を味わっていました。自分でも驚いたくらい、悲しさや寂しさは、こみあげてきませんでした。あの学校で過ごした6年間、楽しいことが一切なかった、という訳ではないのです。辛いことももちろんありましたけれど、大体は毎日、けっこう楽しく過ごしていました。それなのにあんなに解放された気分になったのは、学校ではみせないでいたものの多さが響いていたのかもしれません。
大学に入った途端に、自分に合う水のなかで泳ぐことが、どんなに楽なのかを思い知らされました。前の学校より格段に真面目な学生が多い中、小難しい話をしてもむしろ面白がって乗ってくれ、どんな文語体を使っても面倒そうな顔をせず、小説もたくさん読み、そして毎日髪を巻いて、どうやったのかわからないような凝った形にしてきたりしない彼らと過ごす時間が、どんなに気楽に感じたことか!
この時初めて、ああ、前の学校は自分と合ってなかったのだ、とはっきり理解しました。私がずっと欲しくてたまらなかったものが、ここでは全て何の努力もなしに手に入ったことが、衝撃でした。
あの6年間が無駄だったとか、苦痛だったとは、思っていません。良い先生方に教えていただけましたし、私につきあってくれる友人もいましたから、楽しいこともたくさんありました。合わない環境におかれてもある程度は元気にやっていけるという、貴重な技術を磨くことができたとも思います。もう戻りたいとは、絶対に思いませんし、当時の友人のうち連絡を未だにとっているのは、ほんの一握りですが、それでも、あそこで過ごした6年間はしっかりと、私の一部になっています。
追記:読み返してみると、後悔はしていないし苦しくもなかった、といいつつも辛かったっていいたいのが透けて見えるような文章ですね。あのときはあれが自分の知る学校世界の全てだったので、何と比較することもできないから普通に過ごせた、というのが正解で、振り返ってみればどれだけ無理してたのかがわかるなあと、今だからこそ考えてしまうのです。で、何に恋してたのかと言えば、本に恋してました。物語はもちろんですが、文章や文体というもの、言葉遣いや、物語内だけでなくて、それを通してちらほらとみえる、作者の世界観について考えるようになったのも、大体この時期だと思います。