31.5.11

「夢」と「現実」の。

ちょっと思い出したこと。今までも何回か書こうとしたけれど、上手く書けなかったこと。やっと、ちゃんと書けたような気がします。ちょい暗いのでご注意ください!



 『夢の守り人』は、私にとって長らく、シリーズの中で一番苦手な作品でした。
 『守り人』シリーズをくり返し読み返し始めたのは、私の持病が悪化して、学校に行けず、ほとんど外にも出られなかった時期でした。何もしていないと自分の体の状態を意識してしまって辛く、かといって動くとそれも辛い。そんな状態だった私は、本の中に意識を潜らせて、その辛さから少しでも離れようとしていました。一冊の本を読み終えたら、すぐに次の本に移り、それを読み終えたら次に。当時の私の好きな本の基準は「分厚いかどうか」と「長いシリーズかどうか」でした。分厚ければ分厚いほど、シリーズが長く続けば続くほど逃避できる時間が長くなるためです。『ネシャン・サーガ』なんかには随分と助けられました。
 当時は完結していなかったものの『守り人』シリーズもまた、長編として私の読書ローテーションに組み込まれていました。その中でどうしても読めなかった本が『夢の守り人』でした。

 「あの人生は〈花〉の罠よりずっとひどい。あの一生にとらわれるよりは、こっちの夢にとらわれていたほうが、ずっといい。」(p174)
 「もしっていうのは、苦しくなったときにみる夢だよ。目ざめてみれば、もとの自分がいるだけさ。――夢を逃げ道にできるような人生をわたしはおくってこなかった」(p306)
 
 夢に囚われたチャグム、そしてバルサの台詞ですが、私にとって、前者は共感でき、後者は読むに堪えない言葉でした。持病が治ることはない、と医者に宣言され、前も後ろも見えず物語世界に没頭してその日その日を生きるのが精いっぱいだった私に、「逃げず、現実を見ろ」と言ってくるファンタジーは重すぎました。この本のこの部分を読んだとき、まるでこんな自分の存在が否定されたような拒絶を感じて、それ以上読み進めることができなかったのを覚えています。あの時は、本を開いたままぼろぼろ泣きました。それでそれ以降、『守り人』シリーズを読むときには、『夢の守り人』はかならず飛ばして読んでいました。物語に必死に没頭していたからこそ、メッセージが深く心をえぐったのだと思います。
 
 その後しばらくして良い医者に出会い、持病も普通の生活を送りつつ付き合って行ける程度に軽くなった私は、『夢の守り人』も読めるようになりました。
 今も、自分が「現実」と向き合えるほど心が強いかどうか、私には分かりません。私にとっての「現実」が、持病が改善したことによって耐えられるレベルになった、というだけなのかも、とよく考えます。できれば以前のようなことにはなって欲しくないけれど、その時には、それに耐えうるほどの精神の力を持っていることを願います。

 でも、繰り返し読むうちに、『夢の守り人』にはもうひとつ、メッセージがあるのだと感じるようになりました。

 「…夢から帰ってこなかった人もいるぞ。(中略)トロガイ師さ。〈花〉の夢からは帰ってきたけれど、けっきょく故郷にはもどらないで、呪術師になっちまったんだからな。」(p306)

 夢と現実とのはざまを行き来する人、すなわち呪術師という存在も、物語の中にはある。それは、作者とも重なってくる存在のように思えます。夢を棄てず、しかし夢に呑まれるのでもなく、夢を自分の力とする、そんな生き方もいいじゃないかと語りかけられているような気が、私にはするのです。



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