27.11.09

The Picture of Dorian Gray

 どうもこんにちは、生まれて初めてインフル(not豚)というものにかかったWaYaです。オスカー・ワイルド著の「The Picture of Dorian Gray」読了感想を書きたくて、ベッドの上でパソコンをいじっています。

 まず最初に、私が読んだ本について。使用したのは講談社英語文庫の本です。日本人向けの洋書なので、本の後ろにわかりにくそうな単語が解説されています。難しい単語、フレーズの意味が書いてあるので辞書いらず!めちゃくちゃ楽でした。私がワイルドの難解な文章を読み通すことができたのは、この単語リストのおかげです。
 この講談社英語文庫の評価によれば、この本のレベルはTOEIC550点~だそうですが、大嘘だと思います。TOEICは日常的に使う英語を試すものだから、美麗な文章のドリアンには当てはめられない基準のような気がします。
 英語力向上のために読むのでなければ、サクッと日本語で読んでしまえばよいと思います。訳本の文章などは未確認ですが、2006年に出版された新訳も出ています。

 オスカー・ワイルドについて。「幸福の王子」悲劇「サロメ」(荻原規子さんの「樹上のゆりかご」を読まれた方はご存知かと!)などで有名なアイルランド生まれの作家です。結婚しているのですが、同性愛が原因で投獄され、上流社会に復帰できないまま一生を終えたそうです。


 「ドリアン・グレイの肖像」に興味を持っている方向けに、まずは自分なりの粗筋を。ネタバレ無しですが、私の主観入りです。←追記:この場合の「ネタバレ」とは、エンディングをバラすことを指します。

 主人公は「プリンス・チャーミング」(意訳:素敵な王子様)とまで呼ばれるほどの美貌を持つ貴公子、ドリアン・グレイ。金髪碧眼、ギリシャ彫刻のような均整のとれた顔立ちや大理石(白)のような肌をした20代の男性です。作品中では、ギリシャ神話に登場する美貌の少年アドニスに例えられています。

 物語は、とある画家がドリアン・グレイの肖像を描き上げた場面から始まります。ドリアンの美しさに魅せられた画家は、自らの魂をつぎ込んでその絵を描き、彼に贈るのです。そのすばらしい絵を見たドリアンは突如として、今までは無頓着であった自らの美貌に気付きます。そして永遠に美しいままでいるであろうその肖像画といずれは老いる己を比較し、老いや美を損なう諸々のものへの恐怖を抱くのです。そしてドリアンは祈ります。彼がこの絵のようにいつまでも美しさを保ち、肖像画が彼の醜さの身代わりとなってくれるように、と――。
 不思議なことに彼の願いは成就し、周りが老いて行く中、ドリアン・グレイだけは若く美しい姿のままでした。しかしそれに呼応するように、ドリアンの肖像画は醜く変化していくのです。外見的な美しさの衰えだけでなく、堕落していくドリアンの魂までも反映して――。

 ネタバレなしに語れるのは大体、ここまででしょうか。
次は感想です!ネタバレです!エンディング分かっちゃうとかなり面白さが減少するので、本気で興味をもってる方は読了するまでこれを読まない方がいいと思います!読んでもいいや、と思う方は下のread moreへ。
 もうひとつ。これはあくまでも私的な感想です。キリスト教的なモチーフについても言及しますが、間違っているところ、人により解釈が異なる個所もあるかもしれません。その点に関してはご容赦ください。


 崩壊へと向かうドリアンの魂、その醜さと邪悪さを忠実に反映する肖像画。外見的な美しさと内面的な醜さの対比が、ワイルドの流れるような文章で表現されていきます。
 己の魂の醜さを認めることを嫌い、そのためにかつての友を殺してしまうドリアン。そして彼は、驚くべき変貌を遂げていく肖像画を目にして悩みます。このままで良いのか、魂の美しさを失って良いものか、と。肖像画を再び美しく戻すには、どうすればよいのか、と。
 そしてとうとう物語の後半、彼は改心することを決断します。素行を改め、肖像画と出会う前の純粋な心に戻ろう、そうすれば、肖像画ももとの美しさを取り戻すに違いない。
 こう考えたドリアンは、手を出そうとしていた農家の娘に別れを告げます。そして数々の「善行」と思われることを行った後、ドリアンは再び肖像画と対面します。しかし彼の期待に反して、肖像画は以前よりも醜くおどろおどろしく変化しているのです。
 この変化の原因は、ドリアンが改心しようとした理由にあると、私は考えています。自らの魂を美しくしようという動機は、ただのエゴ。今まで自分が陥れた人々、殺してしまった友人に対して申し訳なく思う心から生まれたものではないのです。事実ドリアンは、死ぬその瞬間まで、自らの行った殺人を悔いることはありません。それどころか、自分は彼に辛い思いをさせられたのだから当然だ、とその行為を正当化してしまいます。彼の積んできた「善行」は、したがってただの自己満足の域を超えることはなく、肖像画の醜さは増すことはあっても減少することはあり得ないのです。おそらく、心の底から自らの過去を反省し、悔い改めることを誓ったなら、少しは違ったのでしょうが…。
 自分の「努力」に反していよいよ醜く変化する肖像画を前にして、ドリアンは悩み、焦ります。自分は何と醜い生き物になってしまったのか、と。そしてとうとう、彼は肖像画を滅ぼしてしまおうとナイフを手に取ります。肖像画に過去の悪行が反映されているのなら、このナイフで肖像画の自分を殺せばその過去を立ち切れるのではないか。まっさら人生を歩みたい、その一心でドリアンはナイフを肖像画に突き立てます。
 ナイフで絵を突いたその瞬間、ドリアンの家の使用人たちは世にも恐ろしい叫び声を聞くのでした。様子を窺いに行った使用人は、皺だらけでおぞましい様子の老人が倒れているのを目にします。それが嵌めていた指輪を確認して初めて、使用人たちは老人がかつての貴公子、ドリアン・グレイだと分かるのです。
 作中でドリアンの命を狙う者があらわれるものの、結局ドリアンを殺すのはドリアン自身。このことは、悪は自ら滅びるもの、というメッセージのようにも思えます。
 また、キリスト教には「肉体は一時の器であるが、魂は永遠である」という概念がありますが、ドリアンは外見にこだわるあまり、魂をおろそかにしてしまいます。本当に大切なものを見失ってしまったドリアン。その有限のものへの執着心が、「永遠」である魂をより醜くしていったともとれるのではないでしょうか。

他にも語りたいモチーフは様々にあるのですが、とりあえずはここで終了させたいと思います。ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました!!

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